弾丸シェムリアップ
3泊5日という弾丸スケジュールで、世界遺産アンコールワットのあるカンボジア、シェムリアップに行って来ました。
カンボジアは1970年代ポルポト政権下で、多くの人たちが犠牲になりました。思想改造の名の下に、医師、教師、公務員、芸術家、資本家などの良識者が、強制収容所へ送られて、虐殺され、その死者は100万~200万ともいわれています。
当時、週刊誌のグラビアで、アンコールワットが銃撃されているようすを見ました。弾痕が痛々しくて、悲しくて、何時の日かこの地が平和になったら、ぜひ訪ねてみたいと思っていました。
今回、妻と一緒でしたが、ふたりだけの海外は27年ぶり。お互いに歳をとり、亜熱帯気候のなかでまる一日、遺跡群を見学するのはハードですが、その分ホテルのベッドでぐっすり眠れる心地よさは、久しぶりでした。
アンコール遺跡群については、ガイドブックを読めばわかるので、シェムリアップの住宅事情について書きます。住宅は高床式で、1階の柱が2階の建物の荷重をすべて支えています。
日本の木造住宅の場合、1階に筋かいなどの耐力壁をとらないと、構造計算上クリアしませんが、ここでは一切ありません。現地の人に聞くと、地震がないので考えていないとか。
高床式は風通しがよく高温多湿の地域に適しているといわれます。それ以外に、雨季に起こる川の氾濫を防ぐ、蛇や獣の外敵から身を守ることなども、その理由だそうです。
昔は椰子の葉で壁を覆っていましたが今は板壁。1階の柱はコンクリートの支柱が多くなっています。日本でいえばウッドデッキなどで使う沓石が、そのまま伸びて柱になったようなもので、郊外に出るとそれを売っている店があります。
住宅は家族で造る。私たちのような専門業者には依頼せずに、木材や建材も自分たちで調達。建築費は10,000ドルから20,000ドルくらい。一般的に家族が多く、例えば、遺跡を案内してくれたガイドさんの家では、7人兄弟に両親を含めて15人で住んでいました。
1階は米の貯蔵や自転車を収納する物置き場で、子供、ニワトリやイヌの遊び場にもなっています。料理は外のかまどで作り、肉は家畜のブタやニワトリ。
かつて日本にもあった、素朴な日常生活が見られます。
↑コンクリートの柱で建てた高床式住宅
↑1階は子供たちの遊び場。ハンモックでシエスタ
↑椰子造られた高床式住居
既成概念を打ち砕け
この度、年末にホームページをリニーュアルしました。
弊社の家造りをダイレクトに伝えるために、その冒頭で、住まい手が心地よく暮らせる「くうきを創る」を提案しています。
それは日々の生活の中で、「家族とのほんわか触れ合うリビング」だったり、「真冬どこにいても温かい空間」だったり、ダニやカビの原因となる結露のない「呼吸する家の提案」だったり…、空気感を大切にしたい、という考えからです。
住宅展示場めぐりをしていると、最新の住宅事情がわかり,とても参考になります。でも、何件もまわっていると、断熱気密性能はこの家のほうが高いとか、設備はこちらのほうが便利だとか、較べる基準がそういうところに目がいってしまって、「これがスタンダード住宅」と、つい勘違いしてしまします。
弊社では、ほんとうに自分が住みたい家は何なのかを、住まい手の思いを聞きながら一緒に考えていきます。
話しは変りますが、20代のころよく外国旅行に出かけました。時代はバブル景気のまっただなか。忙しい日々でしたが、あたりまえのようなレールを敷かれた毎日に、疑問を感じて飛び出したのです。日本という国が華やかなで楽しかったけれど、窮屈でした。
それが異国に行くと、列車は平気で遅れるし、親切心で網棚に荷物を乗せてくれたと思ったらお金を要求され、社会主義の国ではホテルの部屋がガラガラなのに満室だと言われました。日本の常識が通用しない世界。
アラブの世界ではカフェに行くと、男性だらけで現地女性は皆無。街を歩くと女性はアバヤという民族衣装を身にまとい、忍者のように顔をまで覆っている人たちも。男性社会だから保守的…?! それなのにディスコでは、派手な格好で陽気に踊っていたりする。想像と違う。
最初は苛立ちもどかしさが多かったのですが、その国の空気に身をおくと、しだいに力が抜けて気持が軽くなりました。かしこまって肩肘を張らない。
来年はそんなニュートラルな感覚で過ごしたいものです。
↑今年最期の引渡し物件
↑今年12月に上棟した白馬の別荘地
新しい命に乾杯!
今年もあと1ヶ月いろいろありましたが、私たち夫婦の間でいちばんの話題は、娘が女の子を出産したことでした。「おめでとうございます。おじいちゃんですね」。この言葉には実感が湧かないというか、いまでも戸惑いがあります。
東京に出張中へ向かうバスの中、娘の夫から家族LINEで、「産まれました!!!」「2,570gのおなごです」と母子の写真画像を見たときには、久しぶりにソワソワしました。その気持は、26年前に産まれた娘、24年前に産まれた息子に感じたのと同じ感覚。
娘の時は総合病院で立会い出産。産まれたばかりの赤ちゃんは、元ボクサーのガッツ石松さんに似ていて、すぐに「ガッツ~」と命名されました。毎晩病院に通って硝子越しの保育室からわが娘との対面。小さい子供が車窓を眺めるようにかぶりついていたのを覚えています。その仕草はいくら見ていても飽きることはなく時間を忘れました。
でも母親として育てる自信のなかった妻は、ちょっとブルーで、「もう一日病院にいたい」と、駄々をこねて退院を延ばそうとしました。
息子のときは、お正月の真っ只中。早朝連絡を受けて駆けつけると、彼は保温器の中で取り残されたまま。近くに誰もいなくて、急いで青白い息子の姿をビデオカメラに収めていました。後で聞いた話では、息子をとり上げた先生は、当日ゴルフの予定があり、出産後、直ぐに出かけていってしまったとか。
今年は仕事の関係でも施主のお子様が数組誕生しました。出産目前の工事打合せは大きなお腹で大変そうでしたが、工事完成後に産まれてきた赤ちゃんを見ると、良かったなと、こっちもうれしくなります。
次世代の命は、私たちの家造りの励みとなり、無尽蔵の元気をもらっています。
見えない力をくい止める
一般社団法人エコハウス研究会の第4回全国大会が新宿で開催されました。その内容は弊社が推奨している「そらどまの家」の事例発表会。工務店や設計事務所がたずさわったそらどま体験や、研究者による居住環境データなど、様々な興味深い報告がありました。
そのなかで今回新たに発表されたのが「オールアース住宅」の提案。近年国の政策で「断熱」、「省エネ・エコ」「創エネ」などが求められています。そのために関わってくるのが室内の温熱、湿度、空気。さらに考えなければならないのが電磁波の問題です。
快適な住空間を実現するためには。温熱、湿度、空気、さらに電磁波のバランスが重要。これらを含めて、健康を維持していこうというのがオールアース住宅です。
電磁波は目に見えませんが、過敏症で健康への悩みを持つ方が多いと言います。パソコンが普及し始めた約20年前、勤務していた工務店では、妊婦のために電磁は対策用のエプロン着用をしたり、新築住宅の建物の中心に直径1メートルの穴を掘り、その中に炭を埋設して巨大な炭素棒を造って、磁場を安定させたりしていました。
電化製品の普及により、生活は便利になりましたが、この50年間で電気使用量は10倍急増して、その副作用としての電磁波の影響も考えなければいけない時期にきています。
家電による直接的な懸念もありますが、もっと対処しなければいけないのが、屋内配線。この20年間でその量は5~6倍にまで増えているそうです。オール電化住宅の普及もあり、コンセントの数も4倍になっていますが、日本の場合、100V電源は欧米のようにアース付のタイプ少ないのが実情です。
そんななかで、エコハウス研究会では電磁波対策への取り組みをはじめました。弊社でも健康な生活をおくるために「オールアース住宅」を広めていきます。
日常生活で感じるピュアな感動
「夜はほんとうに静か。外に出ると、木の枝が折れる『コトッ』という音が聞こえるんです」。「その上、星の数の多さにびっくり」。この夏、弊社で安曇野の別荘地に家を建てたご夫婦は、新鮮な驚きを隠しきれない様子。
都会から弊社を訪れる方は、打合せ室から見える田園風景を眺めると、口々に「安曇野っていいですよね」という話題になります。
私が初めて安曇野にやってきたのは、35年前。今と変らず田んぼが広がり、夜になると満天の星。水と空気が「オイシイ」くて、心と体をリフレッシュさせてくれました。
それから10年後、安曇野に移住しましたが、その感動は今では当たり前になっていて、時々、県外からの方々の話で、あらためて気づかせてくれます。季節の移り変わりは、少しずつですが日ごとに変化し、いつの間にか稲刈りも終わりました。
9月連休明けの台風一過の早朝、いつも通り愛犬と散歩をしていると、どんよりしていた有明山に太陽が降り注ぎ、薄暗さの中から大きな弧を描いた虹が広がっていました。私の記憶のなかでは、この景色は20数年の中で3度目。
写真を撮ろうとカメラを取りに急いだのですが、途中でその色彩は拡散してカタチを失いかけてしまいました。仕方なく諦めて散歩を続行。
すると再び太陽の光が強くなり、新たに七色の光が浮かび上がりました。今度は愛犬とダッシュで家に戻り、カメラでフレームに収まるベストポジションを探しながら、畦道をウロウロ。
腰を屈めたり、背伸びをしたり。撮る位置によって虹や山の形が変化します。夢中になっているうちに再び光の曲線が途切れてきて…。
ほんの一瞬、自然の美しさと儚さを感じさせる出来事でした。
↑虹の上にもう一つ薄らと降り注ぐ光のライン。Wレインボー?
戦後生まれの日本の家
「日本の街は住宅が途切れない」。ある外国人旅行者が、新幹線の車窓からの眺めたときの感想。特に東京の過密さには驚かされます。高層ビルから見る夜景は、その明りのすべてに人が住んでいることに不思議な感じがします。
戦後の焼け野原から国の住宅政策がスタートします。昭和25年の住宅金融公庫設立から、融資基準で50㎡以下の小さな家に光が当てられます。それはその後「ウサギ小屋」と呼ばれる日本の住宅に影響をあたえているのかもしれません。
東京・竹橋にある東京国立近代美術館では、「日本の家 1945年以降の建築と暮らし」を開催しています。戦後の「日本の家」を広く理解してもらうために、2016年秋からローマ、ロンドンを巡り、この度、東京で10月29日まで行われています。昨日、訪ねてみました。
館内には日本の建築家56組・75件の住宅が400点を超える模型や図面、写真、映像などで紹介されています。建築家はこの世界では有名人ばかりで、作品も過去に雑誌やTVなどで取り上げられたものばかり。
建築を志した学生時代から、「これが住宅?」、「こんな素材でも家ができるんだ」など、驚きと疑問のお馴染みの作品が、時代の経過とともに展示され、興味深く見学しました。
建築家が何を考え、時代をどう捉えていたのか。ファッションでいえば、奇抜なオートクチュールのようなものかもしれませんが、そこにはクライアントの思いを記号化して独自のカタチを表現しています。
最近は経済効率を最優先して、使用している建材や設備機器がどこも変わり映えしない。住宅の性能は日々進歩していますが、画一化されて特徴がなくなっているのも事実です。
東京の街を俯瞰していると、北アフリカにある迷路のようなメディナに見えたりして、エネルギッシュを感じますが、時々悲しい気持にもなります。
↑館内には清家清設計の「齋藤教授の家(1952年)」の原寸大模型が展示
↑建築家・菊竹清訓氏の自邸スカイハウスの模型
コンクリートパネルの家は手ごわい
ハウスメーカーがコンクリートパネルで組み立てる家は、「火に強い」、「地震に強い」、「風雨に強い」…など、頑丈で長持ち。安心かがあります。
建築コストはかかりますが、その分耐久性があり長い目で見ればお得なのかもしれません。最近縁あって、築20年のコンクリートパネル住宅のリフォームをしました。工事はユニットバスと洗面化粧台の入れ替え。
木造住宅では何度も経験しているのですが、コンクリートパネルの家は、水廻りでは2度目。通常は建ててもらった住宅会社にお願いするのですが、これが結構な金額になってしまうそうです。
現地調査に行くとまず驚いたのは、家じゅうの壁や天井に張り巡る配線。これはIHクッキングヒーターやセキュリティシステムなど設備機器の導入で、後工事したときに天井や壁に隠すことができないために見えてしまう配線モール。
「これ何とかできませんか?」。そんな施主の希望から、古い図面と格闘しながら四苦八苦。収納棚ひとつ取り付けるにも、木下地かコンクリートの壁なのか、それによって施工方法が変ります。
木造住宅では、床下や天井に点検口を設けるので、それを利用して配線や配管するので、比較的ラクにできます。それがこの住宅では床下にもぐるために、100mmのコンクリート床パネルに穴を開けます。
手間暇かかるので、リフォーム業者で工事を断るところも多いそうです。実際、弊社でも電気屋さんで「こういうの得意じゃないから」とお断りされました。
「コンクリートパネルの家」は、「気難しいオジサン」のようだ。一瞬、私の頭に閃きました。それは「どちらも融通が利かない」。
契約後に施主から「うちで建てたメーカーに依頼した見積り金額は、おたくの契約金額の1.5倍でしたよ」と言われ、その大変さを今頃になって感じています。
↑既存のユニットバスを解体して新規にリフォーム