地球に寄りそうサスティナブル住宅

スクラップ&ビルドをくり返す現代住宅はもう卒業。バレナは次世代に引き継ぐ本物の家造りを提案します。

建築家の人となりを感じてしまう家とは

小学校4年生の少年は、学校が終わると一目散で新築中の住宅に向かった。「ドン、ドン、ドン、ガン、ガン、ガン」。建設現場特有の音が鳴り響く。丸太足場から2階へ上ると、大工さんがカンナで木材を削っている。「シュッ、シュッ、シュー」。ほのかに木の香りが広がる。

 

少年は東京・世田谷区の団地から、都下に移ってきたばかりの転校生。といっても、周辺にできた新興住宅地によってクラスの1/3が転校生なのでアウェイ感はない。それに、転校して2ケ月が過ぎたというのに家はまだ完成していない。私鉄とバスを乗り継いで、小一時間かけて通っている。

 

世田谷の団地には約10年住んでいた。当時1960年代の団地には、水洗トイレ、ダイニングキッチン、ベランダなどがあり、鉄筋コンクリートの近代的な建物は憧れの的で、そこに住む人たちは「ダンチ族」と呼ばれていた。近くの都営住宅がまだ「ぼっとん便所」の頃だ。

 

誰もが一生懸命で、その団地には、後の国民的な映画監督や名俳優、ラジオの深夜番組のナレーションでお馴染みだった声優、大学教授など文化人が多かった。大卒の初任給が約1万円という時代、家賃が月額4,100円~5,200円。少年の両親は夫婦共働きで何とか入居基準をクリアした。

 

少年の母は、建築家として独立し設計事務所を構えた夫を支え、働きながらコツコツとお金を蓄え郊外に土地を購入。住宅ローンを組んで、夫の設計で家を建てる事にした。「あなたの好きなように建てて」と、言って。

 

転校後の7月、少年はついに引っ越した。でも台所の壁はモルタル下地のまま。浴室も床と壁がアスファルト防水の状態で、体を洗うには浴槽でシャワーをかけるだけしかない。庭も整地が終わっていなくて雨が降ると泥だらけだ。

 

その後、家は少しずつ化粧され機能的になっていく。建築家の手によって魂を込められる。職人さんの手仕事による、ちょっとした納まり、ちょっとした設え……。その変化を見るのが楽しく、少年はいいようのないワクワク感に襲われた。近所からは「あの赤い三角屋根の変な家」と評判だったが、建築評論家がその住宅をとりあげ、雑誌にも掲載された。

 

もうおわかりだと思いますが、少年は私で、建築家は父です。

 

父は生涯自由人でした。母の経済的なサポートの中で、住宅やお寺の庫裡、保育園、会社のビル、工場、遊園地の施設、店舗内装など、大好きな建築に携わってきました。幼心に覚えているのは、いつも製図版に向かう後ろ姿。トレーシングペーパーから浮かび上がる建物は、魔法のようでした。

 

最近の住宅は経済効率ばかり追求して、住み手の気持ちを考えていません。使用している外壁や内装材は特定のメーカーに集中し、完成した家は似たようなカタチで、似たような内装。どこの工務店が建てても代わり映えがしない。私にとっても耳が痛い。建築家の建物を見ても手法や考え方に工夫がないし、刺激を受けるものが少ない。

 

それが父の建築となると、住み手のためにもかかわらず、どこか彼の気配を感じ、ほっこりする。「何故だろう?」。突き止めてみよう。コラボして一緒に建築してみたい。

 

そんなことを思っていた矢先の1月30日、父は永眠しました。

 

大きな道標を失いました。

 

これからは父の後ろ姿を追いかけていこうと思います。それが一生かかっても乗り越えられない壁でも‥‥。

 

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↑鎌倉に建つ酒造会社社長の自邸

 

 

消費増税とインバウンドで住宅着工の見通しを読む

東京のグランドプリンスホテル新高輪で、平成28年新春経済講演会が開催されました。主催はナイスパートナー会連合会・ナイス株式会社。ナイスは住宅建築用資材の国内流通・輸入販売事業などを展開している企業。私たちにとっては、取引している建材屋さんの商社にあたります。

 

講演会は午後から建築業界に関わる企業の社長、副社長8名による特別パネルディスカッションが行われました。テーマは「住宅業界の市況予測と各社の戦略」。今年の新設住宅着工戸数と日経平均株価の予想。

 

着工戸数は消費税値上げによる駆け込み需要を考慮して、前年度より数%伸び95万戸前後というのが大方の読み。株価については、今年に入って大幅に下がっていますが、年度末には20,000円前後に回復して、昨年より上向きになるという見方をしています。でも、私たちのような小さな会社にとっては景気が良くなるという実感がありません。

 

消費税が8%から10%に増税するのは平成29年4月ですが、注文住宅では平成28年の9月までに請負契約を済ませれば、平成29年4月以降に引渡しでも消費税8%が適用されるという「経過措置」があります。私は前回8%に上がった時の経験上、ハウスメーカーや地場ビルダーは契約を9月までに済ませたら、来年4月以降に着工をはじめるとみています。

 

オイルショック」と「チャイナショック」により悲観的な見方もありますが、多くの経営者は意外にも楽観的。その中でよく耳にするのが「インバウンド(inbound)」。これは外国人の旅行者を自国へ誘致することの意味で、旅行・ホテル業界などで使われます。実際、外国人旅行者は年間1,900万人を超え、かなりの経済効果を見込まれています。

 

弊社のホームグラウンドのひとつ白馬村でも11年前からオーストラリアへの誘致活動がはじまり、多くの旅行者が訪れています。オーストラリア人以外でも中国人、アメリカ人、シンガポール人など、外国人の姿が目立ちます。洒落たホテルやレストランでは異国の人たちでいっぱい。時々「ここは何処」って、つい思ってしまいます。

 

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↑休憩中の新春経済講演会。出席者は1801人と過去最多。

 余談ですが、そのほとんどが男性で休憩中の女子トイレは男性に開放してました

 

 

 

我慢する家からの卒業

今から23年前、東京からIターンした私たちファミリーが借りたのは、松本市内にある平屋の一戸建て。築20年くらいで、断熱が入っていなくて隙間だらけ。

 

真冬に寝床に入ると、顔を出しているだけで鼻の頭が冷たく、足のつま先はいくら経ってもかじかんだまま。天井に向かって「ハーッ」と息を吹きかけると、ゴジラの白い光線のよう。

 

当時、信州では新築の家でも窓サッシはシングル硝子、断熱材は床に25㎜の発泡スチロール、天井と壁は厚み100㎜10kgのグラスウール。石油ファンヒーターをたくと、和室の障子や、勝手口ドアの硝子はびしょ濡れでした。

 

同じ頃、北海道では高気密・高断熱で暖かい家造りが進んでいて、そんな家を札幌まで見学に行きました。外気温がマイナス20度でも、室内は「Tシャツ一枚でも過ごせる家」。私には魅力的で、自分の家は絶対にコレだと感じ、数年後に試行錯誤しながら我が家を建てました。

 

その後、北海道の住宅も結露などの問題が噴出し、高気密・高断熱だけではいけないと換気を取り入れ、改善されながら今に至っています。寒冷地・信州では、冬の寒さ対策をいちばんに考えるべきです。廊下に出ると寒い、脱衣場が冷えていてヒートショックで倒れる。

 

家全体を暖かくするのが健康によいことですが、ラニングコストが気になり、新築の家でも一部の部屋だけ暖房しているのを見かけます。それは寒さを我慢しながら過ごしていることに他なりません。

 

バレナでは自然の力を活用しながらエコを考える「そらどまの家」プロジェクトをスタートします。

 

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↑「そらどまの家」のパンフレット。ご希望の方は弊社にご連絡ください

 

 

 

太陽の恵みを全身で感じる、そんな家に住みたい

朝起きるのが辛くなっていませんか? ぬくぬくと布団に包まっていると、そこから脱出するのに勇気が要ります。特に家の中が寒いと、つい、ダラダラ。

 

先週の日曜日、いつもより少しだけ、朝寝坊してから愛犬と散歩に出かけました。時刻は午前8時、外気は氷点下約5℃。でも、太陽が東からゆっくり昇り、天気がよくなりそう。そんなことを思いながら近所の家の壁を眺めると、表面に白いモノが。

 

これは壁体の温度差によってできた結露。外気温が低かったので、それが霜になって凍り付いた状態でした。構造躯体が薄っすらと浮き出るため、「レントゲン現象」などと呼ばれています。気になったので、そのサイディング壁に赤外線放射温度計を当てると-13.3℃。

 

今度は杉の無垢板壁で試すことにしました。太陽の光が当たる南面と当たっていない西面で調査。西南の角で温度計を光と影に当てると、南面13.1℃、西面-11.8℃、で約25℃の温度差。わずか10数度、温度計を水平に動かしただけなのにこの違い。

 

寒冷地・信州では、冬の寒さは厳しく辛い。部屋全体を暖房するにはかなりのエネルギーを消費します。熱損失という点では、開口部(=窓)部分に熱ロスが多く北海道では窓を小さくする傾向があります。

 

でも、この太陽の熱を利用しない手はありません。建物の断熱気密性能を良くしてできるだけ空調設備を使わないようにする。南面に大きな開口を取り、昼間の太陽の熱を取り込む。高断熱型LOW-E硝子を使えば、日差しを取り込みながら室内の熱を逃がさないようにできます。

 

さらに床に熱容量の高い土間を造り夜放熱させる。これは最近よく耳にするパッシブハウスの考え方ですが、私たちが求める地球に優しいエコハウスのひとつの答えでもあります。

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↑築約20年の木造2階建て。光が当たっている部分が南面

 

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↑南面に温度計を照射すると13.1℃

 

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↑西面に温度計を照射するとー11.8℃

  この温度差、衝撃でした

 

 

 

美しき安曇野の残像

最近、米国出身のアレックス・カーさんが出演するTV番組を見ました。彼は東洋文化研究家であり著述家。留学中に日本中を旅し、徳山県祖谷の自然に感銘を受け、300年前の古民家を購入して、少しずつ修復しながら住居にしました。現在は篪庵(ちいいおり)として見学や宿泊ができます。

 

カーさんの著書「美しき日本の残像」(1993年、新潮社)では、古き良き時代の日本の原風景が失われていく様子を嘆いています。鉄塔と電柱やコンクリートの護岸が美観を壊し、街にはパチンコ店、アルミサッシの窓で造られた住宅、何処へ行っても代わり映えがしない風景。同じ街に見えてしまう。

 

さらに昨年出版された「ニッポン景観論」(集英社新書ビジュアル版)では、派手な看板や田んぼのなかで目立つブルーシートにも、景観への配慮を訴えています。この本を読んだ後、北アルプスを望みながら車を走らすと、意味のない看板や何処までも続く電信柱などが次から次へと現われ、あまりにも多すぎて具合が悪くなってきました。

 

安曇野を訪ねた30数年前の初夏、夕食後にペンションの主人から「これからホタルを見に行きましょう」と誘われました。何処まで行くのかという疑問を感じながら、ワンボックスカーに乗り込むと、到着したのは近くの田んぼ。そこに、ハザードランプをチカチカ点滅させると……。

 

車のまわりに小さな光の粒が集まってきて、その数がみるみる増え、満天の星空を漂いながら宙を舞う。こんな世界は初めてでした。いま思うと東京から安曇野に移住しようと決めたのは、この時だったかもしれません。

 

安曇野の田園風景は今でも有名ですが、ホタルはいません。田んぼも家が建ち、虫食い状態。建物にも統一感がなくきれいな街並とはいえません。少しでも自然にとけ込む街並みを創りたい。そんなことを考えながら、家造りに日々精進しています。

 

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↑今日の安曇野の風景。正面は有明

自邸で実験住宅を5回建てた建築家の話

住宅は3回建てないと納得する家にならないといいますが、自邸を5回建てた建築家がいます。彼の名前は藤井厚二(1888年-1938年)。竹中工務店で初の帝大卒・建築家として7年間勤め、退職後は自邸を実験住宅として建てながら、その研究成果を「日本の住宅」(1929年)という本にまとめました。

 

5回も自邸を建てるなんて羨ましい限りですが、研究対象としてデータを取ながら試みるということは、エネルギーが相当いることです。5回目の建物は、京都の大山崎町に昭和3年(1928年)に建てられ、聴竹居(ちょうちくきょ)として今も現存しています。エコハウス研究会で見学させていただきました。

 

建物は天王山の麓、木立に覆われた高台にあります。その特徴は、1.科学的アプローチを駆使したパッシブな(自然エネルギーを生かした)建築計画、2.洋風と和風そしてモダンを統合したデザイン、3.住まいの“原型”としての居間中心のプラニング、4.ライフスタイル全体をデザイン(以上、パンフレットからの抜粋)。

 

地下5mにある地熱を利用したエアーチュ-ブ、天井や内部建具で風の通りを工夫した換気システム、建材のほとんどを自然素材で施工……。日本の住宅で近年になって求められている環境共生住宅が、この当時に考えられすでに実践されていたことに驚かされます。また給湯機や暖房機の熱源はすべて電気を使用。オール電化住宅だったことも興味深いです。

 

藤井は49歳で逝去し、建築環境工学の研究が一時途絶えしまったそうです。彼の研究がもっと早く引き継がれていれば、シックハウスも防げていたかもしれません。

 

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↑緑に包まれたアプローチ。建物内部の撮影及びネット掲載は許可が必要

 

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↑聴竹居のパンフレット。見学するには要予約

 

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↑今年の春に出版された、聴竹居: 藤井厚二の木

造モダズム建築(コロナ・ブックス)は、見学

前に必見

 

 

 

狭さを感じさせない千利休の茶室

私が所属しているエコハウス研究会とは、古民家から先人の知恵を学び、それを現代の最新技術と融合させながら家造りを考えていこうという団体です。住宅の歴史を学んだり、科学的な資料に基づいてデータを読み込んだり、参加しているとつくづく建築って奥が深いなと思います。時々話題の建物なども訪ねたりします。

 

京都で開催された建築見学ツアーでは、妙喜庵待庵と聴竹居という名建築を見てきました。待庵は茶人・千利休が造ったといわれる現存する最古の茶室で、数奇屋建築の原型にもなったとされています。わずか二畳の茶席というミニマムスペースで、空間として成り立つのか疑問でしたが、狭い感じがしなく、どこか落ち着きます。

 

二畳といっても正面に床の間があり、次の間を加えると四畳半ほどあります。屋根の形に合わせた勾配天井になっているのこと、京間は畳のサイズが関東間より大きいなどが、ほどよい空間と感じる要因かもしれません。屋根は切妻造杮葺きで、軒樋は竹の半丸材。国宝なので建物を維持するにも指定された高価な材料を使うので、メンテナンスも大変だそうです。

 

利休が考案したとされるにじり口ですが、ここから入るものは「武士も商人も誰もが身分差がなく、同じように頭を下げて入り茶室の中では皆平等に振舞われる」ということを表したといわれます。利休は現存している甲冑から身長が180cmと当時としては大柄だといわれていますので、この出入りには利休自身が苦労したのではと思ってしまいます。

 

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↑残念ながら建物の撮影は禁止だったので絵葉書を購入しました