できないと断られた木造のゲストハウス
「申し訳ないですが、こちらの家は弊社ではできません」。といってお断りされたのは、木造住宅のプレカットを依頼している会社の営業担当者。仕方がないのでもう一社お願いしてみると、10日後に同じ答えが返ってきた。責任が持てないという理由だ。
依頼主は上海在住の中国人の方。「ちょっと変った外観にしたい」という希望で、施主様が知合いのデザイナーに図面を頼み、それをベースに弊社で修正を加えました。平面は台形、立面は斜めの壁や柱。「四角い部屋じゃ面白くない」ということで、バルコニーや部屋も一部変形しています。
「やっぱり木造では無理かな」と途方に暮れていると、ふっと「齋藤木材工業」が頭に浮かびました。この会社は長野県・長和町にある信州カラマツを使用した木造建築を施工することで有名。学校や体育館などの公共施設をはじめ、集合住宅、商業施設など、大断面カラマツ集成材を構造材にした大規模木造建築を数多く手がけています。
平成5年に開催された「信州博覧会」のメイン会場になった「やまびこドーム」(当時はグローバルドーム)もこの会社の作品です。
今から10数年前、妻の親戚の方が外観をアールの壁にしたいといわれた時に、齋藤木材工業にお願いしました。カラマツの集成材で土台と桁を曲線で造ってもらいました。また同じ時期、安曇野市の別荘では、大空間の駐車スペース(7m×11m)でお世話になりました。その時は確か、梁せい62㎝で長さ7mの梁を3本使用しました。
私の頭の中では木造住宅で「困ったとき、イコール齋藤木材工業」という回路が働いてしまうようです。今回もS工場長が「やってみましょう」のひとことで了解していただきました。ほんとうに頼りになります。
お陰さまでこの建物は、先週の金曜日に無事に上棟しました。梁・桁の一部にカラマツ集成材を使用し、仕口による欠損が大きい柱の接合部には、金物を取付けました。
問題点としては、ふつうの住宅より材料のロスが多く、大工工事でも造作に余計手間がかかるので、建設費がコストアップになります。床暖房工事を1階だけに変更したり、サニタリーの水廻りをひとつにまとめたり‥‥、建設費も当初の見積金額よりも大幅にコストダウンしました。
お披露目はホームページ等でご報告いたしますので、その際はぜひ見学にお越しください。
↑ conceptional drawing (The north side)
↑ conceptional drawing (The south side)
↑(左)柱に取付けた金物 (右)信州カラマツの構造材
体感型ショールームがグランドオープン
住宅を建てるとき、「窓・開口部」から考える人は少ない。「窓枠はホワイトで格子付」、「丸窓っていいよね」などの話は出ますが、大体は見た目重視で、外観の一部としてしか認識されていません。主役になるのはお洒落なインテリアや高価なキッチンなどばかり。
でも窓は住宅にとってさまざまな役目を担っています。断熱性、気密性、遮熱性、遮音性、防犯性、防露性、通風性、防犯性……。外壁と比べて熱損失が大きいのですが、最近では高断熱タイプもあり、「透明な壁」と呼ばれるほど高性能なものもあります。
「窓がいいからって何なの?」と思われる方は、窓の専門メーカー「YKK AP」の『ショールーム品川』をおすすめいたします。6月2日にグランドオープンして体感型施設として生まれ変わります。
いち早くプレオープンの内覧会を覗いてきました。内部は自社の商品を展示するだけではなく、窓を通して「見る」、「感じる」、「学ぶ」など、様々なことが体感。
たとえば、断熱効果による実体験。昭和55年当時の壁・床・窓の断熱仕様の部屋から、最新の高断熱仕様の部屋(トリプルガラス樹脂窓)まで5つの部屋があり、冬の外気温に設定した状態で、それらの部屋の違いを肌で比較できます。
各部屋には温度計やサーモグラフィでもわかりますが、断熱性能の低い部屋ではひんやりとした床、サッシ廻りの結露による不快感など、身をもって知ることができます。ヒートショックや結露で発生するダニやカビによるアレルギー。健康被害にならないためにも、こだわらなければいけない選択肢のひとつです。
そのほか、シヨールームには、10数種類の窓による遮音性能や遮熱性能も体験できます。遮音では、犬の鳴き声、ピアノの音、飛行機の騒音など、音量を変えながら性能を確認。周波数による音の違いも経験でき、若い人しか聞こえないモスキート音も試してみれます。遮熱ではガラスによる、紫外線カットの数値を計測。女性の方におすすめです。
近未来の窓展示にも注目。手をかざすと自動で換気したり、ブラインドに早や代わりしたり。ガラスをタッチするだけで照明や景色画像に変身し、TVニュースを観たり音楽を聴いたりもできます。
東京へ行ったら品川駅から歩いて5分なので、ぜひ訪ねてみてください。
↑白馬村のN様邸。窓は真空トリプルガラスの高性能サッシ
心地いい陽の明るさで目覚める
「最近、目覚める瞬間に感じるんだけど」。朝食をとっていた妻が話しかけてきた。何だろう、想像つかない。「鼻がムズムズし出すの」。花粉症の妻は夜、安眠するために薬を飲む。朝に近づくと薬が切れてくるのだそうだ。鼻が痒くて目が覚めるって……。
私の目覚めは、闇のなかでブルブルブル~ンという風音ではじまる。少し間があって、チャッ、チャッという足音。と同時に鼻と口のまわりをペロペロ舐められる。愛犬がやってきて起こそうとするのだ。少しの間というのはヤツの背伸びの時間。睡魔と執拗なペロペロ攻撃との葛藤。とにかくしつこい。最後はあきらめて、布団を跳ね上げる……と、まだ朝5時。
4月中頃になると目覚め方が変わる。吹抜けの小窓から陽が差し込み、しだいに部屋が明るくなってくる。全体を見渡し、「いま何時だろう?」と考える。窓からは新緑の木々。明るくなりはじめる時間を楽しみながら起きる。
一年間でこの季節がいちばん好きだ。窓を開けると少し肌寒いけど、空気が美味しくて清々しい。ゴールデンウィークには山桜の花びらが舞う。地味だけど新緑の風景には似合う。農業用水路からは、水が勢いよく田んぼへと流れる。
水面に映し出される北アルプスの山並み。田植えがはじまる耕運機の音。通りには体より大きいランドセルを背負った小学一年生の初々しい姿。「ゲッゲーン、ゲッゲーン」と声をしぼり出すような雉の声。あぜ道を駆け抜けるキツネ。
季節を感じ、その変化を楽しむ。そんな何気ない日常に癒されます。
↑あと数週間でここが水田に
↑路傍の草花
5日間で完成した4㎡の小空間
「トイレの改装をするだけで、いろんな業者の方が入るんですね]と話すのは、弊社が工事を依頼された建材メーカーの社員。わずか4㎡ほどの空間でしたが、限られた工期で完成させるのは大変でした。
工事内容は、壁で仕切られている洗面室とトイレをひとつにまとめて、新しい設備機器に交換すること。築20年を越える洗面室は薄暗く、和便器のトイレは年期が入っていていました。そこで、明るくて気持がよく、居心地がいいスペースを第一に考えました。
工期は5日間。改装工事ははじめてみなければわからない部分が多く、問題発生しそうなところを想定しているのですが、内心はドキドキしながらやっています。
初日は解体工事。壁と天井を取り除き、洗面台と和便器、室内ドアを撤去。Pタイルだった床は、電動ドリルでコンクリート下地まではつります。この作業は建物全体に響き渡る騒音と振動、視界を遮る粉塵で埃まみれで、クタクタになります。解体が終了すると、壁・天井の下地材が現れました。今回は集合住宅やマンションに使われる軽鉄下地でした。
2日目は、はつった床の排水や給水の配管工事と電気配線工事。大工による天井と壁の下地づくりと断熱材の充填、壁の石膏ボード貼り。3日目は、キッチンパネルの壁貼りと見切材を使用した天井の石膏ボード貼り。手間暇かかりますが、仕上がりはいい感じになりました。薄壁用の片引きドアも取付けましたが、下地を固定するのにひと苦労。気がついたら翌日の午前2時過ぎでした。
4日目は、床のタイル工事。モルタルで下地を造り、乾いたら300角の磁器タイル貼り。天井には珪藻土を塗ってもらいました。最終日は、タイル目地施工やクロス工事、照明器具や洗面台、便器などの器具付けにコーキング工事。
なんとか無事工期に間に合いましたが、ほんと大勢の方の力がなければできない仕事です。
改修工事は先が読めなく、新築工事とくらべて時間や費用がかかります。でも現状のものを生かしながら再生することはいいことだと思います。それに手探りでカタチにしていく作業は緊張感があって、楽しいです。
↑水廻り改修工事前(ビフォー)
↑完成したトイレ空間 (左)便器はフロントスリムのタンク式。コーナーみは竹をイメージしたデザインパネル (右)パイン材の片引き戸と人造大理石の洗面台
↑(左)デザインパネルの素材はラジアータパイン (右)支給していただいた照明と換気扇スイッチ
桜の季節を感じながら和やかなひととき
何気ない日常生活でのちょっとした出来事は、けっこう刺激的だったりします。私たち家族にとって3月のイベントは、娘の彼とご両親との食事会。諸事情あって延び延びになっていましたが、4月に入籍することが決まりこの時期になりました。
心配性の妻は何事も準備万端でないと気がすまない性格。当日に着ていく服から、待合わせ場所まで、2ヶ月以上前から決めていました。食事会場は夕食でかしこまるよりも、カジュアルなランチにしようということで、娘たちが東京・溜池山王にあるホテルのビュッフェを予約してくれました。
「ねぇ、食事代の支払いって、それぞれの親で折半するの?」、「ビュッフェだと、どのタイミングで料理を取りにいったらいい?」。そういえば自分たちのときは、私が選んだ高田馬場にあるイタリアレストランだったけれど、あの時は誰が支払ったのだろうか?
その記憶はまったくない。でも後の義母が私の父の顔を見て、「なんか伊丹十三監督に似ていない?」と言ったことは、今でも覚えています。お酒好きな義母は、ワインのほろ酔い加減で、初対面の両親にもフレンドリーでした。
結婚後は夕食になると、お酒が飲めない義父と妻の代わりに、晩酌のお供をしていました。最近では、お酒をこよなく愛する娘がお相手しているようです。
話を戻してランチの支払いですが、キャッシャーの前でそれぞれが財布を出すのも変なもので、娘たちに払ってもらうことになりました。食事会は終始和やかなムード。ビュッフェで席を立つ間も気分転換できてよかった。妻は料理のマナーをネットで調べてシュミレーションしていましたが、思い通りの食事ができたかは定かではありません。
小説やTVドラマでは、結婚式以外で両家の家族が顔を合わせるシーンは少なく、ストーリーとして面白くないのかもしれません。でも、結婚という道筋のなかでは重要ことだなって思います。それは彼のご両親やお兄さんと話をしているうちに、彼の人柄が見えてきたからです。娘が選んだ人だからと信じていましたが、少し安心しました。
「この親にしてこの子あり」といいますが、私たち夫婦はどう見られていたのか……。次なるは、来年1月の結婚式。妻の準備がいつはじまるか、いまから戦々恐々しています。
↑ホテル近くの「桜坂」。あの有名な歌の舞台ではありませんが…
↑6日前の桜は一分咲き。今日はたぶん満開ですね
ファンタジスタと呼ばれたい
イタリアの広場が好きだ。シンボリックな教会や市庁舎を中心に、レストランやブティックなど、洒落た店が取り囲む。「チャオ(こんにちは)」、「コメ スタイ(元気)?」。地元の人たちの何気ない会話。そばでは小さな子供たちが夢中で、サッカーボールを追いかける。
数百年以上の歴史ある建物。そこにはツアー客が添乗員の話を真剣に聞き、バックパッカーが床に座り込んでパニーニを頬張っている。日常生活を過ごす地元の人たちと、外からやってきた旅行者。この空間は違和感がなく、居心地がいい。
日本では広場をつくっても、通り過ぎるだけの雑踏になってしまう。ヨーロッパの広場と、どこが違うのか? 私の卒論のテーマでした。そこに行くだけで高揚していく広場。イタリアのフィレンツェに滞在していた時に、毎日のように通っていた「サンタ・マリア・デル・フィオーレ広場」を思い出します。多くの出会いがありました。
ある日、広場の石段に座っていると、一人の若者が話しかけてきました。「自分はナポリからやってきた」。そういえば、彼の髪の毛は黒色。イタリア人というよりはギリシア人のようだ。「プロサッカー選手で、これからフィオレンティ-ナと試合があるから観に来ないか」と誘われました。
当時、日本ではサッカーは野球人気にくらべてマイナーなスポーツ。Jリーグが開幕する7年前のことです。その日の夕方、私はフィレンツェのスタジアムにいました。彼の姿を探しましたが、最後まで見つけられませんでした。試合結果は憶えていません。記憶にあるのは試合終了後、サポーターが発炎筒を焚き、目がチカチカしたことだけです。
サッカーの面白さとイタリア人の熱狂的な応援は、このとき知りました。
イタリアには「ファンタジスタ」というサッカー用語あります。パスやドリブル、シュートなどで、閃きや創造性を発揮し、観客を魅了する選手のことをいいます。賞賛と尊敬の意味が込められているそうですが、「誰ともなしに呼ばれるもの」で、本人自らが名のるものではないそうです。
先日、野球評論家の野村克也さんが、薬物使用の疑いで逮捕された清原博和容疑者へのコメントで、「野球は技術力には限界がある。その先は頭で考えるしかない。……技術の先には頭脳と感性が必要……」(太線は筆者)と話していましたが、これがファンタジスタの条件のような気がします。
何かやってくれそうなファンタジスタ。仕事もそんな刺激がほしいですね。
↑サンタ・マリア・デル・フィオーレ広場
↑ジョットの鐘楼から見たフィレンツェの街並み
↑フィレンツェの中心街はチェントロ・ストリコ(歴史的地区)と呼ばれ街並み自体が博物館のよう
建築家の人となりを感じてしまう家とは
小学校4年生の少年は、学校が終わると一目散で新築中の住宅に向かった。「ドン、ドン、ドン、ガン、ガン、ガン」。建設現場特有の音が鳴り響く。丸太足場から2階へ上ると、大工さんがカンナで木材を削っている。「シュッ、シュッ、シュー」。ほのかに木の香りが広がる。
少年は東京・世田谷区の団地から、都下に移ってきたばかりの転校生。といっても、周辺にできた新興住宅地によってクラスの1/3が転校生なのでアウェイ感はない。それに、転校して2ケ月が過ぎたというのに家はまだ完成していない。私鉄とバスを乗り継いで、小一時間かけて通っている。
世田谷の団地には約10年住んでいた。当時1960年代の団地には、水洗トイレ、ダイニングキッチン、ベランダなどがあり、鉄筋コンクリートの近代的な建物は憧れの的で、そこに住む人たちは「ダンチ族」と呼ばれていた。近くの都営住宅がまだ「ぼっとん便所」の頃だ。
誰もが一生懸命で、その団地には、後の国民的な映画監督や名俳優、ラジオの深夜番組のナレーションでお馴染みだった声優、大学教授など文化人が多かった。大卒の初任給が約1万円という時代、家賃が月額4,100円~5,200円。少年の両親は夫婦共働きで何とか入居基準をクリアした。
少年の母は、建築家として独立し設計事務所を構えた夫を支え、働きながらコツコツとお金を蓄え郊外に土地を購入。住宅ローンを組んで、夫の設計で家を建てる事にした。「あなたの好きなように建てて」と、言って。
転校後の7月、少年はついに引っ越した。でも台所の壁はモルタル下地のまま。浴室も床と壁がアスファルト防水の状態で、体を洗うには浴槽でシャワーをかけるだけしかない。庭も整地が終わっていなくて雨が降ると泥だらけだ。
その後、家は少しずつ化粧され機能的になっていく。建築家の手によって魂を込められる。職人さんの手仕事による、ちょっとした納まり、ちょっとした設え……。その変化を見るのが楽しく、少年はいいようのないワクワク感に襲われた。近所からは「あの赤い三角屋根の変な家」と評判だったが、建築評論家がその住宅をとりあげ、雑誌にも掲載された。
もうおわかりだと思いますが、少年は私で、建築家は父です。
父は生涯自由人でした。母の経済的なサポートの中で、住宅やお寺の庫裡、保育園、会社のビル、工場、遊園地の施設、店舗内装など、大好きな建築に携わってきました。幼心に覚えているのは、いつも製図版に向かう後ろ姿。トレーシングペーパーから浮かび上がる建物は、魔法のようでした。
最近の住宅は経済効率ばかり追求して、住み手の気持ちを考えていません。使用している外壁や内装材は特定のメーカーに集中し、完成した家は似たようなカタチで、似たような内装。どこの工務店が建てても代わり映えがしない。私にとっても耳が痛い。建築家の建物を見ても手法や考え方に工夫がないし、刺激を受けるものが少ない。
それが父の建築となると、住み手のためにもかかわらず、どこか彼の気配を感じ、ほっこりする。「何故だろう?」。突き止めてみよう。コラボして一緒に建築してみたい。
そんなことを思っていた矢先の1月30日、父は永眠しました。
大きな道標を失いました。
これからは父の後ろ姿を追いかけていこうと思います。それが一生かかっても乗り越えられない壁でも‥‥。
↑鎌倉に建つ酒造会社社長の自邸