地球に寄りそうサスティナブル住宅

スクラップ&ビルドをくり返す現代住宅はもう卒業。バレナは次世代に引き継ぐ本物の家造りを提案します。

35年目のリベンジ。魔女宅の舞台へ

「ずいぶん使い込んでいるね」。

 

40年前、建築学科の授業で、私の製図用具を見て、担当教授が声をかけてきました。持っていたのはドイツ製ステッドラーのペンホルダー。ペン先はメッキが剥がれ、本体はヒビが入っていていました。

 

年期モノのペン。図面を熱心に描いている学生と勘違いされてはまずいと思い、「これは父のものです」と、小声で言い訳。

 

自宅で設計事務所を営む父の製図版には、研芯器や計算尺、三角スケール、コンパス、分度器など幼い子供とっては、見慣れないものが並んでいました。それを使ってトレッシングペーパーに線を引く。落書きをする。製図版は私の遊び場で、父の製図道具を勝手に学校に持っていくのは、ごく自然なこと。

 

件の教授は最初の講義のとき、「自分の授業は出なくていいから、その分建築をたくさん見て欲しい」と言い、「好きな建築はユーゴスラビアにある世界遺産ドブロヴニク」と教えてくれました。

 

26歳の時に仲間と創業した会社を一年休業して、ヨーロッパを中心に放浪の旅をしました。学生時代、講義より本物の建築を見るほうが先という教授の言い付を守り、バックパックで一人旅を楽しんでいたので、気持ちはその延長線上でした。

 

西ヨーロッパを一通り巡った後、教授の言葉を思い出して、ドブロヴニク行くことにしました。まずはユーゴスラビアの首都ベオグラード。そこで一晩泊ることにしたのですが、宿がなかなか見つかりません。

 

訪ねたホテルは照明を点けず薄暗く、どこも「FULL(いっぱい)」だといわれます。社会主義のこの国では、宿泊客を多く泊めると自分たちが忙しくなるので、なるべく泊めないようにしていると、後から現地の人に聞きました。

暗い気持ちになって、ドブロヴニクは次回にしようと、パスしてトルコに直行することにしました。

 

1990年代になると東欧に民主化の波が広がりました。その影響はユーゴスラビアも波及し、民族紛争により国は分裂崩壊。ドブロヴニクも内戦に巻き込まれ、ユーゴスラビアゴスラビア人民軍の攻撃で多くの死傷者がでました。

 

海外メディアが旧市街の爆撃を報道するたびに、「悲しい気持ちになり、もうドブロヴニクには行けない」。

 

内戦の1年前、スタジオジブリのアニメ「魔女の宅急便」が映画化されましたが、その舞台はこの街で、1992年には「紅の豚」のモデルにもなっています。

 

その後内戦は終結し、80%以上のダメージを受けたドブロヴニクは、ユネスコガイドラインにそって再建し、2005年までにはほぼ復旧しました。それを知っていずれは訪ねたいと考えていました。

 

先日、その思いが叶いました。

 

アドリア海の真珠」と呼ばれるこの街は、あまり日本では知られていませんが、欧米人には憧れのリゾート地です。その魅力はどこにあるのか? 

 

約2kmの城壁に囲まれた旧市街には、メインストリートのプラッツァ通りをはじめ、広場、市庁舎、宮殿、大聖堂、修道院、古文書館、大噴水、時計塔など、歴史が詰まった建物が並び、カフェ、レストラン、雑貨屋、土産物屋と旅行者が街歩きに欠かせない要素が揃っています。

 

石畳の裏路地、街を一望できるスルジ山、目の前の広がるアドリア海とロケーションも抜群。

 

ドブロヴニクはヨーロッパの街が持っているすべての魅力を凝縮しています。

 

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↑「アドリア海の真珠」と呼ばれるドブロヴニクの家並

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↑起伏のある城壁からは旧市街が一望。おすすめの観光スポット

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↑復元された建物の壁には、爆撃にあった当時の写真を展示